SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

はじめに

高幡不動尊・不動堂    2022年1月12撮影)

 

 

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の最終回を本日投稿しました。
 3か月ほどで投稿を終えることができましたが、いかがでしたでしょうか?「法華一乗」「円密一致」の最澄の仏教思想の原点をご理解いただけましたでしょうか?

 これで、日本仏教思想史上の主要な重要人物の紹介は、ほぼ終わりました。次をどうするかは現在構想中です。
 大きくは日本仏教を対象とする予定ですが、内容はまだ白紙です。次回の投稿まで、おそらく、1年程度はかかると思います。年齢的にもう頭が回らなくなっていますので、本日がまさに最終回という結果になる可能性も高いですが、気長にお待ちいただければ、と思います。

                        2025年10月25日

 

 

 最終の投稿からほぼ1年ほど経っていますが、本日より新規投稿を再開させていただきます。最終投稿においても予告させていただきましたが、「最澄」をテーマに本日よりしばらくお付き合いお願いいたします。

 最澄の思想の主命題は「法華一乗」と「円密一致」にあります。入唐時も中国天台と密教について授法しています。したがって、「中国天台宗」と「密教」に関する用語などが多く登場します。予備知識として、「仏教思想概要5《中国天台》」及び「仏教思想概要9《空海》」を事前に読まれることをお勧めします。

 本ブログを初回よりお読みになりたい方は、カテゴリーの一覧がありますので、以下の記事も引き続きお読みください。

                         2025年8月8日

 

 SYUUの勉強部屋を訪問いただきありがとうございます。

 このブログでは、仏教思想の概要をご紹介しています。11月にgooブログが終了することに伴い、転居してきました。 gooブログに訪問いただいていた方には引き続きよろしくお願いいたします。

 詳しい内容につては、この後ご紹介していますので、この後最後までお読みいただきたいと思います。

 なお、はてなブログには、カテゴリー一覧の表示がガイド欄にありません。最初から読みたい方には、「月別アーカイブ」の古い順に記事の選択をいただくことで可能になります。また、記事タイトルの下段に「カテゴリー」の表示がありますので、それを選択いただくと、カテゴリーの一覧に遷移します。

 なお、以下にカテゴリー一覧を表示しましたので、この「はじめに」に戻っていただいて、この一覧から選択することも可能です。(一覧は記事の執筆順に表示してありますが、カテゴリー一覧内は、執筆順とは逆に表示されますので、最下段から順にお読みください。)

 

 01仏教思想1 (3) 「釈迦仏教」

02仏教思想2 (4) 「アビダルマ」

03仏教思想3 (9) 「中観」

04仏教思想4 (7) 「唯識

05仏教思想5 (5) 「中国天台」

06仏教思想6 (6) 「中国華厳」

07仏教思想7 (5) 「中国禅」

08仏教思想8 (5) 「中国浄土」

09仏教思想9 (7) 「空海

10仏教思想10 (6) 「親鸞

11仏教思想11 (6) 「道元

12仏教思想12 (5) 「日蓮

13仏教思想13  「最澄と日本天台宗天台法華宗)」

 

 現在、新規の更新は中断中ですが、仏教思想12「日蓮」まで完了しています。そして、仏教思想13「最澄と天台法華」を整理中です。終わり次第UPします。しばらくお待ちください。そして、引き続きお付き合いください。
 コメントもお待ちしています。

                        2025年6月3日

 

 *注意:以下はgooブログでの記事です。

 

 新規ブログ開設のご挨拶をさせていただきます。
 いきなり私的な話で失礼します。もう20年以上前になりますが、1998年の10月に、27年ほど勤めたメーカーから、IT系の企業に転職しました。この転職は、ある意味で私にとっては正解でした。
 いわゆる団塊世代の私ですが、メーカー時代最後の13年間は工場の生産管理部門の責任者として、連日の午前様、自分の意思にかかわらずまさに企業戦士の代表者でした。これに対して、IT系企業への転職は時間的に余裕を私にもたらしてくれました。また仕事の質でも心に余裕を持てるようになりました。

 と、このまま続けると私の履歴書になってしまいますが、この「心の余裕」が、少しは仕事以外にも気持ちを向けさせてくれました。それが「仏教」だったのです。
 転職時はすでに50歳、引退後のことを考えさせる年齢になっていました。そこでライフワーク的なものを何かと考え、それが仏教、なかでも日本の仏教史的なものと考え、早速2,3冊関連する本も読んでみました。
 その結果わかったのことが、仏教史の勉強にしても、「仏教」そのものが分かっていないと、十分に理解ができないということでした。以来約20年、その仏教の勉強のために見つけた「仏教の思想」(全12巻)につかまって、今日まで来ています。

 ブログのタイトルを「SYUUの勉強部屋:仏教思想概要」としましたが、膨大な資料を読んだり調べたりした論文ではありません。入門書のつもりで読み始めた「仏教の思想」でしたが、入門者が読むにはかなり難解でした。仏教は宗教ですが、同時に哲学でもありまます。仏教思想はまさに哲学そのものです。
 主に現役引退後、今日までの13年間に、全12巻を通しで2回、ノートを取りながら1回、さらにそのノートをwordに起こすのに1回、都合4回読み通しています。それでも、何となくわかりましたが、よくわからないというのが現在です。

 ただ、幸い、整理した結果は電子データとして残りました。そこで、このノートから、さらに1巻ごと、ポイントを「概要」として整理することにしました。
 まとまらない文で失礼していますが、ということで、このブロブは、その整理結果をご紹介するものです。
 論文などという大仰なものではありません。ある特定の本の整理ノートのご紹介です。本の抜粋を整理したものとも言えます。当然、私なりの理解の上で整理していますので、理解間違いもあるかと思います。
 その上で、『ちょっと、面白そう!』と思って頂いた方、あるいは、『添削してやる!』という方、大歓迎です。是非、お付き合いください。

 年齢的に、肉体的にも頭脳面でも、どこまで続けられるかわかりませんが、今やっと第1巻の整理が終わったところです。残り11巻、最後までたどり着けるか、かなり怪しいですが、応援も頂いて、頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします。

 2022年6月27日

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第11回:最終回)

神代植物公園の熱帯スイレン  9月26日撮影

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第11回目、そして本日で最終回です。

 前回は、「第2章 最澄の思想」「4.大乗戒独立」「4.2.『顕戒論』の奉呈」をみてみました。本日は「5.最澄の功績」を取り上げます。そして、本日で、仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗天台法華宗)》の最終回です。

 

5.最澄の功績

5.1.最澄の入寂と勅許

(1)最澄の遺言

 前述のように『顕戒論』は最澄の存命中には十分な評価を得られなかったと考えられますが、『伝述一心戒文』の巻上には次の記述を見ることができます。「顕戒の論は、殿上達すと雖も、三年を歴(へ)るも、而(しか)も成らず。先師の病は、数日を歴るも、而も痊平(せんぺい、平癒すること)せず。戒の事ならず。先師の病は、倍倍之を増す。」と。

 最澄は自らの生命が途絶えんことを知り、弘仁十三年(822)夏四月に、遺言を伝えています。それは、『叡山大師伝』によれば、以下(表32)のとおりです。

 以上、遺言のポイントを以下のように整理することができます。

「自分が死んでも喪に服さなくてよい。国家を守護するために、毎日大乗経典の講義を行うように」

「人々を救うために、懸命に努力しなければならない。正しい修行を行い、国家の恩に応えなければならない」

「私は幾度もこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う。私と心を同じくするものは、道を守り、道を修行し、あい思ってその時を待ってほしい」

 最澄は、自身が生涯をかけて臨んだ一乗仏教への強い思いを、弟子たちに託したのです。

 この後、『叡山大師伝』では、六条の禅庵式と呼ばれる遺言を載せていますが、それらは日常の起居や行住坐臥に関するものです。

 ここでは、最澄は、心身が限界に達していることを吐露しており、後を義真(初代天台座主)に委嘱したことを伝えています。

 

(2)最澄の入寂と勅許

 最澄弘仁十三年(822)六月四日に入寂しました。その時の様子を『叡山大師伝』は以下(表33)のように伝えています。

 ここでは春秋五十六としていますが、近年は公文書に基づき天平神護二年(766)生誕とするのが有力で、それを基準にすれば春秋五十七となります。 

 第1章の年表でも示したように、最澄の没後1週間にして、比叡山における大乗戒による授戒を許可する太政官符が下されました。六月十一日の事でした。また、最近の研究では、勅許があったのは、最澄入寂の前日六月三日であったことが明らかになっています。

 

5.2.最澄の著作と思想

 ここまで、比叡山入山、入唐、空海との交流・決別、徳一との論争、そして天台大乗戒壇独立への道、そして入寂と、最澄の思想を中心にたどってきました。

 これらの中でもそれぞれにおける関連著作の紹介をしてきましたが、最後に補足的な意味も含めて、最澄の主な著作とそこに顕れた最澄の思想を見てみたいと思います。

 

(1)『守護国界章』-「無作三身」とは-

ⅰ)論点

 『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』は徳一との論争で登場した重要な著作ですが、ここでは、後世に多大な影響を与えた「無作三身(むささんじん)」について見てみます。

 この用語は常に注目され、様々な観点から尊重されてきましたが、解釈の困難さから、最澄の見解については一定の理解に至っていません。ただ、中古天台では独特の解釈が施され通用するようになった見解も見られます。

 まず、『守護国界章』で「無作三身」の用語が登場する部分を以下(表34)に示します。

 主題として、麁食(そじき)者・徳一が、報仏智の常住であることを認めない立場を論破する、としています。最澄が徳一説と最澄説を相対的に論述しているところがあるため、それを抽出してみると以下(表35)のとおりとなります。

 徳一説の報身は有為無常であり、これに対して最澄は報身常住を説いています。徳一は有為無常、つまり有為(うい、「様々な因縁によって生じた現象や存在。この世の全ての現象や存在のこと」)は無常だ、報身もそうだ、と言っているのですが、最澄は、報身は常にあると主張しているのです。このことは理解できますが、最澄の「無作三身」及び「覚前実仏」は独自の言葉を捻出したものです。これらは、後の口伝法門でも論議されることになりますが、その定義はかなり困難です。

 さらに、最澄は、その報仏を縁起常住とした上で、随縁真如相続常であると規定しています。真如隨縁論は、最澄以来、日本天台諸師の導入する教義であり、草木成仏等の問題にも関与します。そして権教(仮の教え)の三身は無常を免れないのに対して、実教の三身は俱体俱用(仏の体も仏の用(働き)もともにそなえているという意味)であるとしているのです。

 

ⅱ)三身と報身

 ここで、論点に登場する用語「三身」と「報身」について、少し解説をしておきます。

 ウキペディアによると、三身とは以下のように説明されています。

 「身(さんじん、または さんしん、梵: trikāya)は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種である。大乗仏教では三身説をとるが、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦如来衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。」(下表36参照)

 ここで、「報身」については分かりづらいので、さらに説明を加えたいと思います。

 報身とは、「報身の〝報〟とは〝因願酬報〟の意味である。すなわち成仏得道を求めて精進する菩薩が、自ら立てた誓願を成就するべく修行に励み(因願)、遂に、その修行が完成して誓願が成就したときに、その果報として受ける仏身(酬報)のことを〝報身〟というのである。
 また、報身のことを〝因行果徳身〟ともいう。つまり、因位の菩薩がその修行を積み重ねて(因行)、修行を完成・満足した結果として得られた仏身(果徳身)を意味するからである。
 で、何ゆえ、この報身が三身の中心的位置を占めるのかといえば、報身は、上は法身につながり、下は応身につながるからである。法身が永続的な法そのものをさすのに対して応身は、具体的な現実世界のなかに応現した姿をいう。衆生にとって、法身が抽象的であるのに対し、応身は間近に拝することができるが、無常を免れない存在と云う欠点をもつことになる。この抽象・永続性と具体的・無常なる仏身とを連結して、その中庸を得ているところに、報身が珍重される所以がある、ということができよう。(HP「日蓮大聖人と私」より)」

 

ⅲ)論点のまとめ

 上記を踏まえて、論点をまとめると次のとおりです。(HP「日蓮大聖人と私」より)

「徳一は天台大師の釈した「三身常住」や「報中論三」の〝報身〟に対して、唯識思想の立場から〝理法身法身のこと)は自性常住(それ自体常住であること)であるが智報身(報身のこと)は従因生(因に従って生じた仏身)であるから、報身は相続常ではあっても自性常ではない〟と論難した。

 徳一の論難に対して伝教大師が、報仏(報身)も常住である理由を真如随縁論と三身俱体俱用論を駆使して論駁(ろんばく)した。

 まず〝有為の報仏〟が〝権教の三身〟、〝夢中の権果〟(伝教大師全集では〝夢の裏の権果〟)が〝未だ無常を免れず〟にそれぞれ相当し、〝無作の三身〟が〝実教の三身〟、〝覚前の実仏〟が〝俱体具用〟に対応している。
 つまり、徳一がとらわれている〝報仏〟というのはあくまで、前の三教、権教に説かれた三身のなかの〝報仏・報身〟であるから、夢の中(あるいは夢の裏)の〝権(かり)〟の仏果にすぎず、未だ無常を免れないのである、と破っている。換言すれば、徳一は天台大師の報中論三の〝報身・報仏〟を論難したつもりが、実際は、権教の夢中の三身のうちの報身を論難したにすぎず、いわば空振りに終わっている、と伝教大師は破折したのである。
 たしかに、権教の三身中の報身は、凡夫・衆生としての菩薩が因行としての歴劫修行を積んで、その果てに報われて智慧が生じ仏果を得るわけであるから、どこまでも凡夫が〝報われた〟という側面や凡夫から〝作られた〟(有為、有作)という側面、言い換えれば〝始成正覚〟(修行を積んだ果てに始めて正覚を成ずること)の立場がつきまとうのである。
 ところが、天台大師が法華文句巻九で論じた久遠実成の釈迦仏は、すでに始成正覚を打ち破って久遠の生命を開顕した仏について釈したものであるから、初めから〝真如・法性に目覚めている〟本覚の仏身について論じているのである。
 ここで「覚前の実仏」の〝前〟は、〝夢の裏〟に対比して用いられたもので、時間的な前後とは異なることを知らなければならない

 実教に説かれた法身、報身、応身の三身は本覚のゆえに、権教三身のように作られた〝有為〟〝有作〟ではなく、修行なく造作なしの三身であるから〝無作の三身〟といい、しかも、法、報、応の三身の一身が互いに他の本体(体)でもあり働き(用)でもあるという関係を有しているところを〝俱体具用〟というのである。」

 そもそも、天台教学に準ずれば、三身の相即や一体を説くのは基本のことで、湛然(中国唐代の天台宗の僧)が『法華玄義釈籤』などで用いた「俱体俱用」という語をここに示したことは、独創というわけでもありません。但し、報身智の議論で、敢えて三身やそれらの俱体俱用を論じたことの真意を究明することは課題となります。なお、「無作」という表記は天台円教の立場を意味する常套句で、「蔵・通・別・円」(四教*1)に、順に生滅・無生・無量・無作の語を当てはめるのが基本となっています。

 ここで、報身智というのは自受用身(*2)についての議論にほかなりません。智顗(中国天台宗開祖)が言及することのなかった自受用身ですが、例えば、その仏国土における住まいは、天台四土(*3)の中で、法身と同じ「常寂光土」とするのが通例となっています。

 

*1四教とは:天台教学における教相判釈で、蔵・通・別・円の順に教えの優劣を示しており、円教(天台宗)を最高の教えとしている。

*2自受用身とは:報身(受用身)が発展して、生まれた2つの仏身観の一つ。

・自受用報身(じじゅゆうほうしん):仏が自らに法楽、利益を受用する報身のこと

・他受用報身(たじゅゆうほうしん):仏が他に法楽、利益を受用させる報身のこと

*3天台四土とは:仏教で考えられた4つの国土のうち、天台宗で想定している国土のこと。

①凡聖同居土[ぼんしょうどうごど](人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土)②方便有余土[ほうべんうよど](見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土)③実報無障礙土[じっぽうむしょうげど](別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土)④常寂光土[じょうじゃっこうど](法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土)をいう。

 

ⅳ)天台中古における「無作三身」の位置づけ

 最澄がただ一度だけ用いた「無作三身」の語は、中古天台では教学の核心というべき位置づけがされ、多岐に渡る解釈によって活用されました。特に注目すべきは、恵心流において無作三身を自受用身ととらえ、その遍在性に基づく教義が示されたことです。

 遍在性については『観普賢菩薩行法経』に「毘盧遮那遍一切処」と見られる名言が注目され、森羅万象を法身の遍在とすることを含め、中国天台以来様々な観点から活用されました。その毘盧遮那に代わる仏として、自受用身としての無作三身が諸文献に頻出するのは、宗祖としての最澄説を顕揚しようとする意図があったのかもしれません。

 自受用身の遍在性について、般若(般若三蔵 734-810 インド僧、唐にて梵語経典の翻訳を行う)訳の『大乗本生心地観経』には「自受用身の諸相好は、一一十方刹に遍満す。四智円明にして法楽を受け、前仏・後仏、体皆同じ。法界に遍ずと雖も障礙無く、是の如き妙境は不思議なり。是の身は常に報仏土に住し、自受法楽して間断(けんだん、切れ目の意)なし。」と説かれています。

 ここでの「自受用身の諸相好は、一一十方刹に遍満す。」という個所は、中古天台の所説に適(かな)うものでした。したがって、例えば音声(おんじょう)の観点からは、衆生の音声も、風や波の音も全て自受用身の説法となるのです。つまりは、我々の行住坐臥といったあらゆる振る舞いはもちろん、蟻や蚊も例として挙げられ、さらには桜や梅といった自然界も全て、自受用身、すなわち「無作三身」であるという教義として結実するのです。

 と、最澄が作成した「無作三身」という言葉が、中古天台では自受用身と絡めて教義上の重要な根拠とされたのです。そして無作三身の語は単独でも現実肯定を主張する場合の重要語として広範に活用されるようになり、それは即身成仏や草木成仏を論ずる上でも「無作(ありのまま)」の義を含意する教義としての特色を有する展開となったのです。

 

(2)『内証仏法相承血脈譜』

 最澄の相承は円・密・禅・戒の四宗相承と言われ、四宗融合を特徴としています。これらの四宗は、『内証仏法相承血脈譜(ないしょうぶっぽうそうじょうけちみゃくふ)』に、その根拠を見出すことができます。なお、円は天台法華円教と換言できます。また、相承とは「弟子が師から、法などを次々に受け継ぐこと」であり、血脈譜とは「教えが誰から誰へと受け継がれてきたかを示す家系図のようなもの」です。

 同書では、「達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛両曼荼羅・雑曼荼羅」という五種の師師血脈譜を挙げています。最初の四種が四宗です。中国天台も融合的な仏教ですが、最澄はそれをさらに進めたのです。

 五種の相承の要点について以下(表37)に整理してみました。

 

(3)『法華秀句』

 『法華秀句』は最澄最晩年の著作で、既述のように、徳一との論争において登場しています。

 前述のように、最澄の思想は、四宗融合を特徴としています。さらに日本天台は、後には浄土教の法門も加え、山王神道をも重要法門としています。また、最澄が萌芽とした円密一致の教学の確立を図ることになります。

 しかし、最澄天台法華宗の宗祖です。このことから、法華経が他経より優れていることを説いた「法華十勝」を中心とした『法華秀句』の重要性が特に強調されることになります。

 

ⅰ)『法華秀句』の構成

 『法華秀句』は三巻(または五巻)の構成で、その構成内容は次のとおりです。

 上巻(本・末):法華十勝の勝一

 中巻(本・末):天竺と大唐における仏性論争について

 下巻     :法華十勝の勝二~勝十

 

ⅱ)法華十勝の概要

 ここで『法華秀句』の中心をなす法華十勝の概要を以下(表38)のように整理してみました。

 

(4)『註無量義経

 『註無量義経(ちゅうむりょうぎきょう)』(三巻)は、その名のとおり最澄によって著された『無量義経*』の注釈書です。三一権実論争や大乗戒独立との関係がないため、成立時期が明瞭でない著作ですが、天台教学に基づきつつも、独創的な着想による教義が見出され、最澄の思想形成という観点からも検討を要する著作となっています。

 

*『無量義経』について:中国・蕭斉(しゅくせい、479-502南北朝時代南朝)代の曇摩伽陀耶舎(どんまかだやしゃ)が建元三年(481)に訳出した。説時が仏の得道より四十余年にして『法華経』の直前に設定されているところから、古来『法華経』の開経とされ、結経の『観普賢菩薩行法経』 と共に法華三部経と称される。説処は『法華経』と同じく霊鷲山であり、徳行品・説法品・十功徳品の三品から構成される。最初の徳行品第一では大衆を代表して大荘厳菩薩が偈をもって仏を讃歎しているが、この偈頌の中に仏の身について非有・ 非無・非因・非縁等の三十四箇の非が説かれている。説法品第二では仏が大荘厳菩薩らに対して、無量義と名づける法門を修学すれば菩提を即得すること、また無量義は無相実相の一法より生ずることを示している。また、「四十余年未顕真実」と説き 、これまで説いてきた諸経はすべて随機の方便であったことを明かしている。最後の十功徳品第三ではこの経を修行すれば十種の不思議な功徳力(浄心・義生・船師・王子・竜子・治等・封賞・得忍・抜済・登地の十不思議力)を得ることを説き 、大荘厳菩薩および八万の菩薩にこの経を付属し、諸菩薩が弘経を誓って終わる。

 

 以下(表39)に、『註無量義経』の教義の幾つかを整理してみました。

 

 以上、仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》完

 

 長らくお付き合い頂きありがとうございます。如何でしたでしょうか。
 仏教思想という観点では、選定した参考図書の内容とそれ以上に私の能力の問題もあり、深掘り出来ていなかったかと思います。「概要」ということで、ご容赦いただければと思います。それでも、何らかの参考になれば幸いです。

 次回については、現在構想中です。基本的には、日本仏教を対象にしようとは思っています。このまま、日本の仏教思想史上の重要人物の思想紹介にするか、多少視点を変えるか、現在考えています。

 いずれにしろ、概要12「日蓮」から今回の13「最澄」まで1年ほどかかりましたが、その程度は時間をいただくことになると思います。期待せず、気長にお待ちいただければと思います。

 では、その時まで!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第10回)

神代植物公園パラグアイオニバス  9月26日撮影

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第10回目です。

 前回は、「第2章 最澄の思想」「4.大乗戒独立」「4.1.三つの学生式「六条式」「八条式」「四条式」について」をみてみました。本日は4.2.『顕戒論』の奉呈」を取り上げます。

 

4.2.『顕戒論』の奉呈

4.2.1.『顕戒論』奉呈の理由

 前述のように、弘仁十年(819)三月十五日、光定は最澄の命により、国忌大乗三部の経典(『称讃大乗功徳経』など)とともに、「四条式」を宮中届けます。しかし、勅答が遅いため藤原冬嗣を通じて嵯峨天皇に尋ねて貰いました。

 その結果、天皇は、僧綱らが道があると判定すれば許可を与えるが、でないなら許可を与えない旨を述べたのです。宣旨は護命(ごみょう、750-834、法相宗の僧)を通じて七大寺に見解が求められました。

 結果は、「一乗戒というものない、菩薩僧もなく、最澄の奏状には道理がない」というもので、各々の状(上表文=『大日本国六統表』)は天皇に渡されたのです。

 こうして、最澄の主張は認められることなく、一蹴されることとなりました。このため、最澄は七大寺各々の状を入手し、弘仁十年(819)に『顕戒論』を著すことになるのです。

 これらのことは、『伝述一心戒文』(光定著)で知ることができます。

 

4.2.2.『顕戒論』の構成・内容

(1)『顕戒論』の構成・内容の概要

 最澄は、前年十二月に撰した『内証仏法相承血脈譜』と「上顕戒論表」を添えて、弘仁十一年(820)二月二十九日に『顕戒論』三巻(五編)を朝廷に進上しました。その構成と内容の概要は次のとおりです。

 「第一編で上表文への反批判,第二編から第五編は四条式各条に相応するかたちで奏文への反批判を展開。 日本では比叡山だけが一向大乗寺であること,大乗の大僧戒は「梵網 (ぼんもう)経」の十重四十八軽戒であるべきこと,時代相応の僧とは大乗戒をうけ12年間籠山した菩薩僧であることなどを論じ,天台大乗戒壇独立の必要性を訴えるとともに,それが桓武天皇の遺志にもそうものとした。(「日本思想大系」より)」

 

(2)第一篇「雲を開きて月を顕す篇第一」について

 第一篇では、護命らの上奏文に対する反論を行っているが、要点は以下(表29)のように整理できます。

 『顕戒論』の冒頭には帰敬偈(*)が載せられ、それは「稽首(けいしゅ、最高の礼の方法)す十方常寂光(じょうじゃっこう) 常住内証の三身仏 実報・方便・同居の土 大悲示現す大日尊」と始まっています。

 これは、天台宗の仏身(三身)・仏土(四土)論の精髄とも言える表記ですが、具体的な意味は分かりにくいものです。大日尊という表現は、中国天台の用語ではないですが、中国天台では円教の教主を毘盧舎那仏と捉え、その所居の土を常寂光とするのが基本説のため、密教大日如来と置き換えることは可能です。「内証三身」という表現は、最澄独自の観点から主張した「無作三身」と通ずるところがあるように思われます。

*帰敬(ききょう):《帰依敬礼(きえきょうらい)の意》仏などを心から信じ、尊敬すること。

 

(3)二篇以降の内容

 二篇以降の概要は以下(表30)のとおりです。

 第一篇は僧綱の上奏文に対する最澄の反論が中心になっていますが、第二篇以降は、上奏文も引用しながら、諸文献を引用しながら自説を展開しています。

 

 第五編については以下(表31)のような特色を挙げることができます。

 

(4)『顕戒論』の帰結

 以上、『顕戒論』の内容説明でしたが、この最澄の『顕戒論』に対して、彼の在世中には十分な評価は得られなかったと考えられます。

 『顕戒論』の奏上に対して、嵯峨天皇は「道があるならば許可を与えるし、道が無いならば与えない」旨述べたということです。これは、四条式の奏上の時と同じです。

 これらのことは『伝述一心戒文』で見ることができます。同著ではさらに、上奏後三年の間、何の連絡がなかったことが記されています。

 最澄は、『顕戒論』を上奏した弘仁十一年(820)には、『決権実論』、同十二年には『法華秀句』を顕していて、この時期徳一との論争も継続していたことになります。

 『顕戒論』の可否の決着が見られないままの中、弘仁十三年(822)二月二十四日、最澄は僧位の最高位である伝灯大法師位を授与されました。『叡山大師伝』にはこのことを「又、・・・勅して伝灯大法師位を施与せらる。此れ実に手詔(しゅしょう)の宸筆(しんぴつ*)なり、以て後代の珍と為す」と記しています。

*手詔の宸筆:手詔、宸筆ともに天皇の自書の文書のこと。

 

 本日はここまでです。

 次回は、「5.最澄の功績」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第9回)

神代植物公園・大温室の熱帯スイレン   9月12日撮影

 

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第9回目です。

 現在、「第2章 最澄の思想」をみています。そして、前回までで「1.最澄の思想背景-師・行表と比叡入山、入唐-」「2.最澄空海-円密一致」「3.最澄と徳一の論争-法華一乗-」みてきました。本日は「4.大乗戒独立」「4.1.三つの学生式「六条式」「八条式」「四条式」について」を取り上げます。

 

4.大乗戒独立

 前述のように、最澄は、延暦二十五年(806)正月三日に、天台法華宗に年分度者を賜るべく、上表分を提出しています。そして、最澄の提案は勝虞(しょうぐ、732-811法相宗の僧)らの僧綱( 僧尼の統轄,諸大寺の管理・運営にあたる僧の役職)による賛同を得るところとなり、正月二十六日に太政官符(「更に法華宗の年分二人を加え、諸宗の度者の数を定むる官符」)が最澄の提案どうりで出されたのです。(天台宗の独立)

 しかし、最澄は「法相宗相奪」ということを挙げています。養母・随縁・死去などの理由もあるものの、大同二年より弘仁九年(818)までの二十四人の得度者のうち比叡山に住しているのは十名だけであるとしているのです。

 このことは、「大乗戒独立」へと繋がっていきます。

 第1章の最澄の略歴(表1-1)にもあるように、大乗戒独立のため、最澄は3回の上奏を行っています。一般的に「六条式」「八条式」「四条式」と呼ばれるものです。しかし、これらはいずれも南都僧綱の反対にあい、認められませんでした。このため、最澄は、最後に『顕戒論』を奉呈することになります。

 以下、3回の上奏(学生式)と『顕戒論』について、その概要を説明します。

 

4.1.三つの学生式「六条式」「八条式」「四条式」について

 弘仁九年(818)にはいくつかの重要な記事が伝わっています。

 一つは、光定(779-858)の『伝述一心戒文』には、二月七日のこととして、次のようなことが記されています。それは、それまで日本にはなかった大乗寺一乗寺)を建立するというものでした。あわせて、最澄は光定に、一乗の号(一乗定)を授けることを告げたとあるのです。

 また、『叡山大師伝』には、三月に最澄が弟子に述べた言葉が載っています。その中に「今自(よ)り以後、声聞の利益を受けず。永く小乗の威儀に乖(そむ)かん。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已(おわ)れり」とあり、最澄は小乗の威儀である二百五十戒を棄捨したと宣言しているのです。

 さらに、『伝述一心戒文』には、四月二十三日に、最澄大乗寺を建立したい旨を藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ、平安後期の公家、後に左大臣)に伝えたところ、「且(しばら)く須臾(しゅゆ、しばらくの間の意)を待て。」と返答があったと記されています。

 これらの結果、五月十三日には、「六条式」を作成し奏上することとなりました。さらに「八条式」、「四条式」と続くこととなりました。以下(表28)に三つの「学生式」の概要を示します。

・六条式

 

 

・八条式

 

・四条式

  最澄は、四条の後には、大乗経によらなければ七難を除けず、菩薩僧でなければ未然の災いを防げないと述べています。また、大乗戒は真俗一貫の戒であり、出家と在家の二種の菩薩に通じる戒であることに併せ、二種の菩薩はともに菩薩という一類であることが説示されています。

 

 本日はここまでです。
 次回は、「4.2.『顕戒論』の奉呈」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第8回)

神代植物公園のハス    7月18日撮影

 

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第8回目です。

 現在、「第2章 最澄の思想」をみています。そして、前回までで「1.最澄の思想背景-師・行表と比叡入山、入唐-」「2.最澄空海-円密一致」とみてきました。本日は「3.最澄と徳一の論争-法華一乗-」取り上げます。

 

3.最澄と徳一の論争-法華一乗-

3.1.三一権実論争とは

 最澄と徳一の論争については、このことに関する徳一の著作が残っていないため、徳一の思想は主に最澄の引用によって知るところとなります。

 とは言え、それぞれの立場が最澄の一乗、徳一の三乗のどちらを真実ととらえ、どちらを権(ごん、仮)あるいは方便ととらえるかという根本にあるので、相容れるはずのないものでした。

 最澄が説く一乗思想は、一切衆生は成仏できることを強調します。一方、三乗思想は、成仏できない衆生(二乗、つまり小乗仏教の修行の階梯で声聞と縁覚のこと)を認めるものです。

 

3.2.最澄と徳一の著作にみる論争の内容

(1)論争の概要

 最澄と徳一の論証において、最澄が最初に著したのが『照権実鏡』であったとされ、弘仁八年(817)二月のことでした。

 以下、最澄と徳一の著作より知られる論争の内容を整理してみると以下のようになります。(下表24参照)

 

(2)『守護国界章』による徳一批判内容

 『守護国界章』の巻上之下には次のような記述が見られます。(下表25参照)

 ここでは、最澄は、徳一の「止観論」を引用して、それを迂回・歴劫であると批判し、直道を誇ることが全体の主張となっています。その直道は飛行無礙道(飛行による直接煩悩を断ずる道)とも換言され、末法が近いこの時代に小乗の機はなく、皆が法華一乗の機になっているとしているのです。

 ここで注目されることは、直道の語のもとに天台と密教の修行を統合していることです。

 さらに、「四安楽行」以下の修行の内容は、以下(表26)のように整理できます。

 以上に、遮那胎蔵を加えています。遮那業を設立していることからすれば当然のことですが、空海との決別後も、最澄にとって密教が生涯重要な法門であったことは徳一との論争においても見ることが出来ます。

 

(参考:『摩訶止観』「四種三昧」の概要 表27)



 本日はここまでです。

 次回は「4.大乗戒独立」「4.1.三つの学生式「六条式」「八条式」「四条式」について」を取り上げます。

 

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第7回)

神代植物公園のハス    7月18日撮影

 

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第7回目です。

 現在、「第2章 最澄の思想」をみています。そして、前回までで「1.最澄の思想背景-師・行表と比叡入山、入唐-」をみてきました。本日は「2.最澄空海-円密一致」取り上げます。

 

2.最澄空海-円密一致-

2.1.最澄空海の交流

(1)文献の借用

 空海(774-835)が唐より帰着したのは、最澄帰朝の翌年、大同元年(806)十月のことでした。空海はすぐに京に入ることは許可されず、大同四年(809)七月十六日に至って入京(平安京)を認められました。

 このため、最澄は、空海入京の年の八月二十四日には、空海に書簡を送り、十二部の文献の借用を願っています。(下表20-1参照)

 ここでは、密教関係の書籍を中心に請うていることが分かります。この中では、後の最澄に重要な論拠を与えることになる『大唐大興善寺大弁正大広智三蔵表答碑三巻』(『不空表制集』六巻のこと)が含まれていることに注目する必要があります。

 その後も、最澄の借覧依頼は続くことになります。主なものは下表(20-2)のとおりです。

 最澄は、弘仁三年の借用依頼の前日、十月二十五日には乙訓寺(おとくにでら、京都府長岡京市にある真言宗の寺)で、空海に会っています。そして、十一月十五日には高雄山寺において、金剛界灌頂を、十二月十四日には胎蔵界灌頂をそれぞれ、空海から受けています。(詳細後述)

 さらに、灌頂を受けた後も借本は続いており、その中で、『金剛菩薩五秘密念誦儀軌』は、顕教が歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう*)を必要とするのに対して、密教は現証(*)であることを説いていることから、東密では空海以来、台密でも円仁以来尊重される文献となっています。

*歴劫修行と現証

歴劫修行とは:菩薩が成仏するために、無限にも等しい長い時間を、数えきれないほど生まれ変わりながら修行すること。

現証とは:教えの正しさを保証する三証(文証・理証・現証)の一つ。現実の証拠。その宗教の教義に基づいて信仰を実践した結果が、生命や生活、そして社会にどのように現れたかということ。

 

(2)空海よりの灌頂

 前述のように、最澄は、金剛界胎蔵界の両方の灌頂を空海から受けていますが、それは本格的なものではなく、結縁灌頂(けちえんかんじょう*1)、あるいは持明灌頂と呼ばれる入門的なものでした。

 空海直筆の「灌頂歴名」によれば、最澄の得仏は、金剛界が金剛因菩薩(*2)、胎蔵界宝幢如来ほうとうにょらい*3)であり、その金剛号(金剛名号、密号*4)はそれぞれ菩提金剛、福聚(ふくじゅ)金剛ということです。

 最澄は、空海からの伝法により、胎金両部についての知識を深めることにはなったのです。それは、順暁からの伝授とは全く異なるものでした。

*1結縁灌頂とは:出家や在家、あるいはその対象を問わず、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式。投華得仏(とうけ とくぶつ)といい、目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶところから結縁灌頂の名がある。投華灌頂(とうか かんじょう)ともいう。

*2金剛因菩薩とは:金剛界曼荼羅、羯摩会三十七尊中の十六の諸尊のうちの一尊、西方四菩薩のうちの一尊。

*3宝幢如来とは:大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。梵名は「如意宝珠の旗印(をもつ者)」の意。胎蔵曼荼羅画面東方に位置し「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す仏とされる。仏道修行の根本である菩提心(発菩提心)を旗印とし、その旗(幢)によって諸魔(修行を妨げる煩悩や迷妄)を退ける如来であり、阿閦如来(あしゅくにょらい)と同じとする説もある。胎蔵曼荼羅中台八葉院の大日如来の上に位置する。

*4金剛号とは:真言行者の入壇・灌頂によって受ける名号(仏や菩薩の名)。たとえば、空海の遍照金剛、慈覚の大勇金剛などの類。灌頂号。〔五秘密儀軌〕

 

2.2.空海との決別

(1)決別の直接原因-『釈理趣経』の借用依頼-

 最澄空海の決別の原因が、『理趣経』の注釈を借りようとした最澄の手紙に対して、空海が激しく拒絶したとする見解は説得力をもったものと言えます。

 最澄は、自身が『理趣経』を入唐の際に将来しています。このため、最澄は『理趣経』の注釈の内容が知りたかったと考えられます。しかし、不空訳『理趣釈』には、十七清浄句(*)に基づく男女関係の肯定的な思想である大楽思想が説かれています。空海最澄の要請を断ったのも、そういった理由からかもしれません。

 空海は返書で「以心伝心」を強調し、「文は是れ糟粕(そうはく)なり、文は是れ瓦礫(がりゃく)なり。」と述べたことはよく知られています。

 ここでは、空海は「糟粕瓦礫を受 くれば即ち粋実至実を失う」ということを述べています。つまり、空海は、密教は文書のみでは継承できない。まさに以心伝心、『理趣釈』という文書で理解しようとした最澄のことが許せなかった、と考えられます。

*十七清浄句とは:大楽思想の骨子で、一切の人間的欲望が肯定され、性欲でさえも清浄な菩薩の位置にあるとの表明。

 

(2)『依憑天台集』にみる最澄の思想

 最澄は、弘仁四年(813)九月に『依憑天台集』(『大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集』)を著しています。

 この著では、既に日本にあった一行(683-727)の『大日経疏』を引用することで、密教と天台義が同契することを主張したのです。この一行の『大日経疏』は、『大日経』の注釈書として、空海将来の『大日経疏』、円仁将来の『大日経義釈』と内容的には、大同小異と言えるものでした。

 善無畏(637-735、インド僧。唐代玄宗の命で『大日経』などを漢訳した。)の弟子であった一行は、天台教学も学んでいたため、天台教学を依用(えよう、拠り所の意味。)する主張が見られるのです。

 最澄は、この一行の主張に注目し、密教が天台の「三徳*」と「数息*」と「三諦の義*」と一致すると説いたのです。(天台の三諦と密教の阿字門の結合)

 最澄は、弘仁七年(816)には、この『依憑天台集』の序文を追加しており、その中で諸宗の学匠(学僧)が天台に依憑(えひょう、拠り所とする教えや思想)していると述べ、真言宗や南都の華厳家・三論宗法相宗ではそれを忘却していると非難しているのです。

 真言宗については、「筆授(文章による教え)の相承を泯(ほろぼ)す」としており、これは『理趣釈』の貸与を拒み、文献を尊重しないとする空海のことを念頭に置いたものと言え、最澄としては、空海との交流が終わったことの宣言とも言えるものです。

*天台の三徳:法身・般若・解脱、数息:精神を安定させるための呼吸法、三諦:即空即中即仮

 

(3)最澄の「円密一致」説と空海の反論

 最澄空海最澄と泰範(最澄の愛弟子、後に空海のもとに)の書簡の中から、最澄の主張や空海の反論を見ることが出来ます。

 

ⅰ)弘仁三年八月・最澄空海の書簡

 最澄は、弘仁三年(812)八月十九日の空海宛の書簡で自らの立場を表しています。

 「但、遮那の宗(密教のこと)と天台と融通し、疏の宗もまた同じ。・・・法華・金光明は、先帝の御願なり。亦、一乗の旨は真言と異なること無し。付して乞う、遮那の機を覓(もと)めて、年年相計って伝通せしめん」

 最澄にとっては、天台と密教は融通し、優劣をつけるものではなかったのです。特に、「一乗」の語は、その生涯において、天台と密教の一致を論ずる上での重要語となったのです。

 この書簡は空海からの受法以前のものですが、のちには空海の非難を浴びることになるのです。

 

ⅱ)弘仁七年五月・最澄→泰範の書簡と空海からの返書

 最澄は、弘仁七年(816)五月一日に泰範宛に自らの終焉を告げるかのような書簡を送っています。

 この中で、最澄は、高雄山寺で一緒に空海から灌頂を受けたことを記し、劣を捨てて勝を取ることは世の道理であるとしても、法華一乗と真言一乗に優劣はないと伝えたのです。

 これに対する返書は空海によってなされたことが知られています。それは、『遍照発揮性霊集』に「泰範、叡山の澄和尚の啓を答するが為の書」と題されて収められた文章です。

(下表21参照)

 ここで空海は、密教顕教を対比して密教の秀逸性を説いているのです。例えば、仏身については、法身と応身の説には差別有りとして、密教の仏を理法身・智法身・自受用身に限定しているのです。(空海は四種法身ということを説いています。(*1下表22参照)天台宗では、法身・報身・応身という三身(*2下表23参照)の一体平等を強調しており、空界とは全く立場を異にしているのです。

 いずれにしろ、最澄空海の関係が断絶するのは、思想的には当然の帰結であったのです。

「参考資料:法身論」

*1空海の四種法身

 (仏教の思想9空海よりの要約)

 

*2三身

 

 本日はここまでです。
 次回は「3.最澄と徳一の論争-法華一乗-」を取り上げます。

 

 

 

 

 

仏教思想概要13:《最澄と日本天台宗(天台法華宗)》(第6回)

神代植物公園のハス    7月18日撮影

 

仏教思想概要13《最澄と日本天台宗天台法華宗)》」の第6回目です。

 前回から「第2章 最澄の思想」に入り、「1.最澄の思想背景-師・行表と比叡入山、入唐-」のうち、「1.2.比叡入山」をみてみました。本日は「1.3.入唐と帰朝」取り上げます。

 

1.3.入唐と帰朝

1.3.1.天台法門の習得-道邃と行満

(1)入唐求法

 高雄山寺での講演により桓武天皇の信頼を得た最澄はこの後、天台法門習得のため入唐することになります。ここで、その仲介役として春宮安殿(とうぐうあて)親王(後の平城天皇)が登場します。親王は天台の教えの後継への伝承の必要性を聞き、延暦二十一年(802)九月六日に「高雄の法会を随喜し、天台の教迹を尊重す」という旨を伝えたということです。

 これに対して、善議らは奉謝の意を表した上で、高雄山寺における法会の様子を伝えたのです。この謝表では、聖徳太子の取経説(*1)や『法華義疏』(*2)執筆について述べたり、天台教学の秀逸性や、さらに高雄山寺での進行状況などを報告しているのです。

 このようなこともあって、最澄は入唐求法の必要性を上表という形態で説くことになり、桓武天皇の命により自ら入唐する決意に至ったのです。

聖徳太子の取経説:聖徳太子の希望により、前世とされる南岳大師慧思(思禅師)が、中国で修行していた時に持っていた『法華経』を、隋から小野妹子等を遣わし取り寄せたとする説。

*『法華義疏』:『法華経』の注釈書。伝承によれば推古天皇23年(615)に作られた日本最古の肉筆遺品である。聖徳太子の著作とされるが真贋は定まっていない。

なお、本著と同じく聖徳太子の作とされる『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))と『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))とを合わせて「三経義疏」と総称する。

 

(2)陸淳と道邃

ⅰ)刺史陸淳

 一度の失敗を経て、延暦二十三年(804)七月六日遣唐船(四船)に同乗(最澄は第二船、なお、第一船には空海が乗船していた)、最澄は、肥後国長崎県松浦郡松浦を出発し唐土へと向かったのです。

 第二船の唐土への到着は不明(第一船は三十四日後の八月十日に到着)ですが、明州(浙江省)鄮(ぼう)県に到着、疾病のため、九月一日出発の一行には遅れて、最澄は九月十五日に天台山を目指して明州を出発しました。そして、九月二十六日台州浙江省)に到着し、ここで、台州の刺史陸淳(?-805)に迎えられます。

 この時の様子は『顕戒論縁起』及び『叡山大師伝』にみることが出来ます。それによれば、最澄から陸淳に金十五両と九物が献上され、そのうち金は返されたため、それを『摩訶止観』の写経に充てることになったとあります。これにより、陸淳は、道邃(どうすい、又はどうずい、生没年不詳、後の中国天台第七祖)を台州龍興寺に呼び寄せたのです。

 この結果、最澄は、道邃より『摩訶止観』などの天台法門の講義を受け、道邃を勾当(こうとう、句当、寺の事務を執る役僧のこと)として、天台本門の書写が行われたのです。

 こういった中で、まず注目すべきこととして、陸淳が最澄の求法の志を見て随喜し、「道を弘むるは人にあり、人能く道を持す。我が道の興隆は、今当(まさ)に時なり。」と述べていることです。この言葉は論語の名言である「人は能く道を弘める。道が人を弘めるのではない」に通じるもので、この名言は中国仏教界に大きな影響を与え、日本でも知られていましたが、最澄にも大きな影響を与えたと考えられます。

 

ⅱ)道邃和上-「一心三観」

 最澄や義真が道邃から円教の菩薩戒を受けたのは貞元二十一年(805)三月二日であり、『顕戒論』巻上には以下(表10)のように述べています。

 道邃から菩薩の円戒に併せて、「一心三観*」を一言に伝えられたとしているのです。この一言の伝授は、後の日本天台で盛隆となる口伝法門で尊重されることとなります。

*一心三観とは:天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する「空観 (くうがん) 」、それらは仮に現象していると観想する「仮観 (けがん)」 、この二つも一つであると観想する「中観 (ちゅうがん) 」を、同時に体得すること。円融三観。

 

(3)行満との邂逅

 道邃との邂逅後、『叡山大師伝』によれば、日付の明示がないものの、天台山に登り仏隴寺(ぶつろうじ)の行満(ぎょうまん、生没年不詳)に師事することが出来たのです。

 天台山における最澄一行の行動日程については、信ぴょう性に欠けるものの、ほかに資料がないため、『天台法華宗伝法偈』が用いられます。それによれば、最澄が行満に拝謁したのが、貞元二十年(804)十月七日、伝法は十四日に行われ、その時に、八十余巻(『叡山大師伝』ではより詳しく、法華疏・涅槃疏・釈籤・止観、并びに記等、八十二巻)を授与されたとあります。そして、十一月五日には共に天台山から龍興寺の道邃のもとに戻ったとあります。

 なお、『叡山大師伝』には、行満が自ら手書きした文が載っており、最澄について以下(表11)のように述べています。

 なお、『内証仏法相承血脈譜』の「達磨大師付法相承師師血脈譜」によれば、天台山訪問中の十月十三日に天台山禅林寺の翛然(しゃくねん、又はしゅくねん又はゆうねん)から達磨付法の牛頭(ごず)禅を伝授されたことが知られます。また、同じく「雑曼荼羅相承師師血脈譜」から十月某日に、天台山国清寺の惟象(ゆいぞう)より大仏頂大契曼荼羅の行事(密教)を伝授されたことが知られます。

 その後、義真は十二月七日に国清寺で、清翰(せいかん)を戒和上として三師七証による具足戒を受けています。この結果、帰国後に入唐僧として十分な資格を得て、後に初代天台座主となっています。

 

1.3.2.密教受法

(1)順暁との邂逅

 前述のように、最澄は、道邃から円教の菩薩戒を貞元二十一年(805)三月二日に受けましたが、三月三日には、帰国のため到着の地明州に向かい台州離れます。明州への到着は三月二十五日でした。

 明州では、刺史の鄭審則の勧めで、越州に向かい龍興寺にて泰岳(泰山)霊巌山寺の順暁(じゅんぎょう、生没年不詳)より三部三昧耶(密教)の法門を伝授されたのです。

 これらの状況については、『叡山大師伝』及び『顕戒論』にて知られます。(下表12参照)

 そもそも、最澄の入唐求法は天台法門の修学であって、密教は前提になかったのです。ただ、最澄密教に興味を持っていた可能性はあり、鄭審則の勧めもあり、積極的に受法を願ったかもしれません。それと、順暁との出会いも偶然といえるものでした。

 さらに、『顕戒論』では、最澄胎蔵界金剛界の両部灌頂を受けたとしていますが、順暁から受けた密教は、独特のもので、それ自体が密教としては不十分なものでした。この当時の中国における真言密教は、恵果(えか、又はけいか、?-805)が主系であったとされ、その第一の後継者が空海でした。そのため最澄は自身が順暁より受けた密教の灌頂は傍系であることを知ると、空海に礼を尽して弟子入りして灌頂を受けることとなります。(次項以降で詳細後述)

 とは言え、最澄の受法は天台密教、いわゆる台密の出発点となるものでした。

 

(2)最澄受法の密教とは

ⅰ)最澄受法の密教の道場

 それでは、順暁が最澄に授けた密教とは、どのようなものだったのでしょうか。

伝法の場所(伝法の真理の及ぶ範囲といった意味合い)について、『越州録』(*)では「五部灌頂蔓荼羅壇場」と記し、印信(密教で、師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状)では「毘盧遮那如来三十七尊曼荼羅所」であったとしています。

 最澄が入唐した当時、長安では『大日経』に基づく胎蔵界と『金剛頂経』に基づく金剛界の両部密教が伝授されていて、空海はその両方を一具のものとして伝授されたのです。しかし、最澄密教はそのようなものでなく、素朴な内容のものでした。(下表13参照)

 以上から、いずれも、最澄の受法の道場は金剛界の道場であったのです。

*『越州録』とは:『伝教大師請来目録』(国宝)のこと。『越州録』は通称。最澄が現地で集めた経典などを日本へ持ち帰る許可を得るために作成された目録。 初めに最澄自筆の目録と密教の法を授かった経緯を記した文章があり、続いて(遣唐使船が出港する)明州の役人による許可文、最後に遣唐使の署名まで備えた、まさに完璧な公文書とみられるもの。

 

ⅱ)三部三昧耶の密教とは

 最澄が受法した密教は、三部三昧耶(さんぶさまや)とされています。それはどのような密教だったのでしょうか。印信よれば、三種の真言(*)が抽出されており、さらにそれらが、三種の悉地(*)に当てはめられています。つまり三種の真言を唱えることで、それぞれの悉地に至ることが出来ると解釈できます。

(下表14参照)

 ただ、三種の真言の抽出や悉地への当てはめの理由は明確ではありません。ただ、敢えて言えば、胎蔵界金剛界が混在していることとなります。

 

 この順暁から最澄への付法は、最澄にとって極めて重要な受法でした。それは、帰朝後の活動にも顕著であり、また、最澄以後にも相承されていくことになるからです。

 とは言え、その後も三真言を並記する根拠は問題とされることになります。そのことを解決したのは、円仁、円珍の跡を継ぎ天台密教を大成した安然(841-902)でした。

 安然は、『尊勝破地地獄陀羅尼儀軌』(善無畏訳との説もあるが、成立詳細は不明)という儀軌(密教で,仏・菩薩・諸天神などを供養したり,念誦をするときの儀式規則。また,それを記した書物。)を見出し、その儀軌には三種の真言が載っていると説いたのです。それに相当する儀軌は総称して『三種悉地破地獄儀軌』という善無畏(*)訳の三書で、三書いずれにも三種の真言を上中下の三品に配する内容となっていました。安然は三書のうちの中の一書を見たと推察されます。

*善無畏:637-735、インド出身の僧、ナーランダー僧院にて達磨笈多(だるまきくた、ダルマグプタ)に師事し、彼から密教を学ぶ。唐・長安に赴き『虚空蔵求聞持法』、『大毘遮那経(大日経)』などを漢訳する。

 

ⅲ)雑密の伝承

 最澄密教相承には、いわゆる雑密に分類されるものがあります。『内証仏法相承血脈譜』の中の「雑曼荼羅相承師師血脈譜」がそれにあたり、最澄自身の表記によれば、雑曼荼羅の相承となっています。

 それによれば、明州滞在中の貞元二十一年(805)五月五日付けで付法されたとあります。(下表15参照)

 雑密には、これらに、既述の、前年十月某日、天台山国清寺の惟象(ゆいぞう)よりの「大仏頂大契曼荼羅の行事」の伝授が加わります。

 

1.3.3.帰朝と伝法

(1)天台法門受法の報告

 『日本後紀』によれば、最澄の遣唐船は、延暦二十四年(805)五月十八日に明州を出発、六月五日に対馬嶋(長崎県下県郡阿礼村に到着したとあります。

 そして定説では、帰朝報告が七月十五日に行われています。そのことは『顕戒論縁起』の「経疏等を進むる表」により知ることが出来ます。進官録(表)と言われるその文書では、随他意の権(ごん)教である三乗の教えと、随自意の実教である一乗教を比較して、一乗教である天台円教(天台の完全なる教え)を宣揚しています。

 天台教学に基づく法華一乗思想は、最澄にとって思想上の根幹であったのです。この文書では、そのことを桓武天皇に伝えているのです。

 同時に、「灌頂秘法」を伝授されたことも述べたうえで、合計二百三十四部六十巻の文献を招来したことを報告しています。

 その結果、桓武天皇は和気弘世に勅を下して、最澄が将来した天台法門を天下に流布させ、また、僧侶たちに学習させるため、七通を書写させ七大寺に置くよう述べたのです。また、道証・修円(以上二人は法相宗)・勤操(ごんそう、三論宗)・守尊・慈蘊(じうん)・慈完の六法師を詔して、野寺(常住寺)の天台院で、その新しい天台法文を閲覧させ学ばしたのです。

 

(2)密教の灌頂

  桓武天皇最澄帰朝の翌年(806)の三月に崩御しています。その1年前から体調を崩していたのです。最澄が、高雄山寺で本邦初の灌頂を修したのは、九月七日(805)であり、それは桓武天皇の要請であったのです。

 これらのことは、『叡山大師伝』『顕戒論縁起』などから知ることが出来ます。(下表16)

*公験(くげん)とは:律令国家 が特定の人物に 特権 を認める際に出した証明書の一種のこと。

 

 以上、『叡山大師伝』と『顕戒論縁起』』の内容には一部重複するところもありますが、延暦二十四年九月一日に勅があり、九月七日に高雄山寺にて、八名(道証・修円・勤操・正能・正秀・広円、ほか二名(一人は最澄の弟子円澄か?))の大徳に対し、最澄よりの三部三昧耶の灌頂が行われたことが知られます。

 延暦二十四年(805)、最澄四十歳のことです。桓武天皇の体調ともかかわって、最澄に期待されたのは、天台法門より密教にあったことが窺われます。

 なお、『叡山大師伝』には、もう一つの灌頂、五仏頂法についての記載もあります。

 ここには、先の灌頂とは別に最澄に重ねて灌頂秘法を修するよう和気弘世が勅を受けたことが記されています。日時は不明ですが、場所は野寺(常住寺)の西郊、受法者は、前の八人と豊安・霊福・泰命の十一名でした。

 

1.3.4.天台宗の独立

(1)各宗派への年分度者配布の上奏

 最澄は、延暦二十五年(806)正月三日に、天台法華宗に年分度者を賜るべく、上表分を提出しています。それは、南都六宗のうち、三論宗法相宗のみになっている現実を憂えたものでした。この上表分は、『叡山大師伝』、『顕戒論縁起』にもみられますが、親筆が現存する『天台法華宗年分縁起』では「将に絶えんとする諸宗を続ぎ、更に法華宗を加えんことを請う一首」となっています。

 その内容は、三論宗法相宗に限定せず、年分度者を南都六宗に十人、天台法華宗に二人の合計十二人とする案でした。この中には、愚宗と言われていた成実宗倶舎宗も含まれていました。

 最澄の提案は勝虞(しょうぐ、732-811法相宗の僧)らの僧綱( 僧尼の統轄,諸大寺の管理・運営にあたる僧の役職)による賛同を得るところとなり、正月二十六日に太政官符(「更に法華宗の年分二人を加え、諸宗の度者の数を定むる官符」)が最澄の提案どうりで出されたのです。(下表17参照)

 この結果をもって、天台宗では、この日(延暦二十五年正月二十六日)を独立開宗した日としています。

 後に遮那業と止観業と呼称された年分度者は、天台法華宗密教をも一部門として二つの大きな柱を持ったことを意味しています。

 

(2)天台宗における修行

 年分度者に対する、天台法華宗における修行内容については、後述する弘仁九年(818)五月の「天台法華宗年分学生式」においては、第三条と四条でそれぞれ以下(表18)のように規定されています。

 これらに共通するのは護国のためということであり、比叡山に住して十二年間を出ることなく修行することが規定されています。

 

(3)得度の条件

 延歴二十五年正月二十六日の太政官符では、年分度者の人数とともに、重要な内容として、得度の条件が示されています。(下表19参照)

 このように、この太政官符が持つ意義は極めて大きなものでした。但し、天台宗の年分度者が最初に得度したのは、大同五年(810)一月の宮中金光明会においてでした。この時は、大同二年(807)から五年まで四年分八名が得度しています。

 さらに、得度における問題点として、最澄は「法相宗相奪」ということを挙げています。養母・随縁・死去などの理由もあるものの、大同二年より弘仁九年(818)までの二十四人の得度者のうち比叡山に住しているのは十名だけであるとしているのです。

 このことは、第1章でも取り上げた「大乗戒独立」(詳細後述)へと繋がっていきます。

 

 本日はここまでです。
 次回は「2.最澄空海-円密一致」を取り上げます。